Saturday, December 10, 2016

【Hortonworks Advent Calendar 2016】 みどりのゾウさんを愛するスゴ腕Zoo Keepers

ここ1、2年、個人的に国内外の取材でとてもお世話になっているのがHortonworksです。Hadoop関連の取材が増えるにしたがい、HadoopのトップベンダであるHortonworksとの接点も自然と増え、去年と今年は米サンノゼで行われた「Hadoop Summit Sun Jose」にもプレスとして参加させていただき、仕事にもかかわらずとても楽しい日々を過ごしました。いや、本来なら仕事でも楽しいほうがいいですよね。Hadoop Summitにかぎらず、米国のITカンファレンスは本当に楽しいものが多いので、時差ボケとメシのまずさと物価高に耐えられるのなら、とても有意義な期間を過ごせます。開発者の方なら、ぜひ年に一度は海外イベントに行かれることをオススメします。


そんなワケでずいぶんHortonworksのエラい方々、いわゆる役職付きのエグゼクティブの皆様にも取材を通してお会いさせていただきました。今回、人生初のアドベントカレンダー参加ですが、わたしにしか書けないであろうネタということで、これまで取材したHortonworksの何人かの方々をちらりとご紹介してみたいと思います。

ロブ・ビアデン

Hadoop Summit 2016 San Joseのキーノートにて


直接インタビューさせていただいたことはありませんが、現在のHortonworksの顔といえば、やはりこの方、CEOのロブ・ビアデン(Rob Bearden)でしょう。Horotnworksが設立された2011年にCOOとして入社、翌2012年からCEO職に就き、現在に至っています。Hadoop Summitのキーノートやその他のカンファレンスでお見かけすることが多いのですが、温厚でいて、力強いメッセージを発信できるリーダーという印象です。Hortonworksの前にはOracleのほか、JBossやSpringSourceといったオープンソースカンパニーに在籍していた経験もあります。オープンソースをビジネスで成功させるのって、本当にハードルが高いのですが、そのマネジメントをできる、世界でも数少ないエグゼテクィブなのではないでしょうか。なお、Hortonworksのマネジメント担当者にはOracle出身者がけっこう多かったりします。

Hortonworksは現在、単なるHadoopのいちディストリビュータから、データアナリティクスのグローバルテクノロジ企業へとトランスフォームする必要性に迫られています。一方で、前述したようにApache Hadoopというオープンソースを事業のコアに置くビジネスは、短期的な利益にはどうしてもつながりにくい。Hortonworksにとっては残念なことに、コミュニティとビジネスの間に立っていたプレジデントのハーブ・クーニッツが6月のHadoop Summitの後に、売上があまりよくなかった責任を取って辞任しています。この痛みを乗り越え、いちHadoopベンダの枠を超えてオープンソースビジネスをどうスケールしていくのか、2017年はロブにとってもターニングポイントになる1年だとみています。

アルン・マーシー

Hadoop Summit 2016 San Jpseのキーノートにて

ロブ・ビアデンが現在の会社の顔だとしたら、アルン・マーシー(Arun Murthy)はHortonworks創業以来の顔、そしてApache Hadoopコミュニティ誕生以来の顔といえるかもしれません。アルンにも直接インタビューさせてもらったことはないのですが、Hadoop Summitですれ違ったりすると、つい「カッコいいなあ」と見とれてしまいます。いつかインタビューをセッティングしてほしいなあ…

2011年にYahoo!からスピンアウトしてHortonworksを設立したファウンダーのひとりです。MapReduceのスペシャリストとしてYahoo!在籍中から著名な開発者として活躍していましたが、現在はHortonworksのエンジニアリング部門のVPとして、主力製品である「Hortonworks Data Platform(HDP)」の開発を指揮しています。もちろんHadoopコミュニティにおいてももっとも重要な開発者のひとりであり、Apache Hadoop PMCのチェアを務めたこともあります。HortonworksはApache Hadoopの開発における貢献(コミットしたコード行数、解決済みイシュー数)でダントツの首位を誇りますが、それはアルンをトップとするHadoopエンジニアたちが優秀であることに尽きます。HadoopコミッタやPMCの数ももちろんトップです。以前、とある作家さんから「人は正論では動かない、憧れで動く」という言葉を聞いたことがありますが、Hadoop開発者にとっての憧れであるアルンの存在は、まさに彼らにとってのビジョナリーであり、心を動かすドライバなんだろうなあ…といつもおもいます。

スレシュ・スリニバス


今年3月、米サンタクララにあるHortonworksの本社でお会いさせていただいたのがスレシュ・スリニバス(Suresh Srinivas)、アルンと同様にYahoo!からスピンアウトした創業メンバーのひとりで、HDFS開発の主要メンバー、もちろんPMCです。日本にも何度か来ているので、ご存知の開発者の方も多いかもしれませんね。なお、このときのインタビューは別に記事にしています。


スレシュを訪ねた時期はちょうどアイルランドのダブリンで行われるHadoop Summitの直前で、Hortonworksの本社はほんとうにがらーーーんとしていて、ものすごくさびしかったのを覚えています。エグゼクティブもみんなダブリンに行ってしまい、「パスポートの準備が間に合わなかったから今回は(ダブリンに)行かないことにした」というスレシュだけがインタビューに応じてくれることになって、でもよく考えたらとても運が良かった。おかげでHadoop 3.0のもっとも重要なアップデートであるイレージャコーディングをはじめ、Hadoop開発におけるいくつものガイドラインを知ることができました。スレシュとのインタビューを通じて、自分の中のHadoopの理解が一段進んだ気がします。もっともインタビュー中にスレシュが言った「あいらいじゃー」の意味がわからず、何度も何度も聞き直しても結局わからず、記事を書きながらイレージャコーディング(ereaure coding)のことか!とようやく腑に落ちたという…インド人の発音、ムズカシイ(_ _;)

6月のサンノゼのサミットでスレシュと再会したとき「記事をGoogle翻訳にかけて全部読んだよ。すごく良いインタビューにしてくれてありがとう」と言われて、涙が出るほどうれしかったのを覚えています。本当に全身から良いひとオーラが漂っている、すばらしい開発者です。またいつか、お話をうかがう機会があればいいな。

Hadoop Summit 2016 San Jpseの会場でスレシュとばったり再会! 記念にピースでぱちり★

サンジェイ・ラディア


Hadoop Summit 2016 San Jpseのキーノートにて。ちなみにサンジェイともピース写真ありますw

今年10月にはついに東京でもHadoop Summitが開かれました。サンノゼの規模に較べるとかなり小さいものの、セッションの質はサンノゼと同じくらい高く、それでいて解放的な雰囲気が取材していてとても心地よかった。国内ではまだ数の少ない有料カンファレンスでしたが、結果としては大成功だったんじゃないかとおもいます。ちなみにHadoop Summit Tokyoについてももレポート書いてます。


東京でのサミット開催に伴い、Hortonworks本社から何人かのエグゼクティブが来日しましたが、その中でもいちばんエラかったひとがたぶんサンジェイ・ラディア(Sanjay Radia)です。アルンやスレシュと同様に創業メンバーのひとりであり、現在はHortonworksのチーフアーキテクトを務めています。HDFSやYARN、Apache Hiveなどの開発コミュニティではリーダー…というよりかなり雲の上のひと的存在かと。

まだ記事にしていないので、ちょっと大声で言いにくいのですが、サンジェイにも単独インタビューさせてもらっています。インタビュー前、わたしのこれまでのキャリアと過去記事の何本か提出せよという要望がきて、「え、もしかしてコワいひとなんだろうか…」とビビリながら英語で自分のキャリア紹介を書いた記憶があります。実際にお会いするとふつうに穏やかな方で拍子抜けしたのですが、やはりチーフアーキテクトという立場から、技術的な知識があるジャーナリストかどうかのチェックをされていたみたいです。なんとか合格したようでほっとしました。

サンジェイはYahoo!以前にSun Microsystemsで分散コンピューティングを専門にしていたキャリアをもちます。なのでインタビューではHadoopのリソース管理の効率化についていろいろお話をうかがえただけでなく、オープンソースに対するアツい思いも聞かせていただきました。やはり元Sunの方は心の底からオープンソースが好きなんですね。サンジェイに「Hortonworksはオープンソースを事業のコアにしているという理解でおけ?」という質問をしたら、ちょっと語気を荒げて「コアではない! オープンソースは我々にとってのすべてだ - Opensource is EVERYTHING to us!」と答えてくれたのが印象的でした。

スレシュもそうなんですが、サンジェイも日本のHadoop開発者をすごく高く評価しています。とくにHortonworksの顧客でありながら、最近では開発にも積極的に参加しているYahoo! JAPANを「ファンタスティックな仕事をしている」とむちゃくちゃほめていました。開発者だけでなく、「日本は景色も食べ物も人もすばらしい」と絶賛してくれて、単純ですけど、そういうのを聞くとやっぱりうれしくなりますね。次回お会いするときも、日本がほめられる状況が続いているといいのですが。

ジョー・ウィット


Hadoop Summit 2016 San JoseのHortonworksのブースにて

前述したとおり、Hortonworksは現在、単なるHadoopディストリビュータからアナリティクスカンパニーへの脱却を目指してビジネスモデルを変えようとしています。そうした中で、HDPと並ぶもうひとつの主力製品としてフォーカスしているのが「Hortonworks DataFlow(HDF)」です。HDPがApache Hadoopをベースにしているように、HDFはApache Nifiというオープンソースプロダクトをベースにしています。ひとことで言えばデータフローのオーケストレーション製品で、データソースから収集したデータをどこに出力し、ふたたびどこに格納するか、といったデータの流れ(data flow)を可視化し、自在にコントロールことが可能です。たとえばTwitterから吸い上げたデータをSparkにインジェストし、分析後はHDPに格納、といった流れを設計できるわけです。オープンソースになったのは2014年で、その前までの8年間、かのNSAによって開発されていました。NSAがオープンソース…ちょっと驚きますよね。

このHDFを開発面で統括しているのが"NiFi Guru"、カナダ出身のジョー・ウィット(Joe Witt)です。現在のHortonworksでの肩書はエンジニアリング部門のシニアディレクターですが、もともとのキャリアは国防総省のソフトウェアエンジニアであり、NSAとともにNiFiの開発の中心人物でした。2014年にNiFiがApacheに寄贈された後、NSAのエンジニアたちと2015年3月にOnyaraというNiFiスタートアップをローンチしていますが、その5カ月後にHortonworksに買収され、現在に至ります。NiFiという名前を付けたのは「ナイアガラフォールズ(Niagara Falls)の近くに開発拠点があったから」というごくシンプルな理由だと話していました。

ジョーとは6月のサンノゼのサミットでいろいろ話をさせてもらいました。これもちゃんと記事にしていないんですよね…我ながらほんとうにアウトプット効率がわるくてげんなりしますが、それはともかく、「データを扱う上で、大事なのはまずビジュアライズすること。見えないものを見えるようにする、それだけでやるべきことは自然とわかってくる」と強調していました。現在、NiFiをリプレースするようなデータフローオーケストレーションツールはないとのこと。「NiFiでこだわった点はいろいろあるけれど、ストリーミングの方向性をインタラクティブにしているのは重要なポイント。Stormなんかだとこれはムリ」と話してくれました。うぅ、ちゃんとインタビュー記事書こう…。

アルンやスレシュ、サンジェイとはだいぶ違ったタイプのエンジニアですが、ジョー自身はHortonworksでのエンジニアライフが「とても楽しい、エクセレントな毎日」と語っています。「いろいろなタイプの人間がいて、多様性がある。そしてコミュニティを作り上げている感覚がすごくいい。これほどコミュニティ指向の企業はそうはないんじゃないかな」というジョーの言葉に、サンジェイが強調していた"Opensource is EVERYTHING to us!"な会社の姿勢が見て取れますね。

*****

Hadoopのマスコットがゾウさんなのはいまさら言うことではありませんが、Hortonworksという会社の名前は、絵本の主人公のゾウ"Horton the Elephant"から取ったそうです。スゴ腕のゾウ使いがずらりとそろったHorotonwokrs、2017年はどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、物書きのひとりとして心から楽しみにしています。あ、その前に、サンノゼのみどりのゾウさんは、もっとかわいくしてほしいです>エラい方々



サンノゼのサミット会場ではこの雑なつくりのみどりゾウさんがあちこちに出没します。かわいくないの…

ではみなさま、よいクリスマスをお過ごしください!

Friday, November 11, 2016

マダム・プレジデントに花束を

11月8日の夕方、サンフランシスコ市内での仕事を早々に終えてUberに乗り込み、友人との待ち合わせ場所であるダウンタウンのバーに近づくにしたがい、わたしはすこしずつ気持ちが高まってくるのを感じていました。ついに迎えるその瞬間 - 米国に初の女性大統領が誕生する瞬間を、ここ米国で、それもヒラリーの圧倒的な支持基盤であるカリフォルニアにおいて迎えることができるなんて、自分はなんて幸運なんだろうと、かるい興奮を覚えながらビールを空けていたことを覚えています。わたしも、友人も、そしておそらくあのバーにいた誰もが、その数時間後にヒラリーがドナルド・トランプに負ける時間を共有するとはカケラも想像していませんでした。米国時間の今日(11/10)、ホワイトハウスではオバマ大統領がトランプを次期大統領としてして迎えるそうですが、「そこにいるのはヒラリーのはずだったのに、どうしてこうなった」という思いをどうしても消すことができずにいます。日本よりはるかに女性の社会進出が進んでいる米国ですら、女性が大統領になることにここまで拒否反応があるという事実に、あらためて打ちのめされるしかありません。

いつか米国にも、女性の大統領が誕生することは間違いないでしょう。でもその輝かしい称号がヒラリーに与えられる機会はもうありません。今回の選挙に敗北したこと以上に、ヒラリー・クリントンという傑出した女性政治家が大統領の座に就く日は永遠にやってこないのだという事実が、時間の経過とともに重く、つらく、じわじわとのしかかってきます。

ちょうど2年前の2014年、わたしはこここサンフランシスコで、ヒラリーをごく間近で見る機会に恵まれました。サンフランシスコを含むシリコンバレーのIT企業は民主党の重要な支持母体であり、その代表的企業であるSalesforce.comのカンファレンス「Dreamforce '14」にヒラリーがキーノートスピーカーとして登壇したのです。当時、ヒラリーはまだ大統領選への出馬宣言をしておらず、世間がその去就に注目していた時期でもありました。厳重な警戒体制のなか、プレスに許されたごく数分間の写真撮影の時間に至近距離で目にしたヒラリーは、思っていたよりずっと小柄で、世間で喧伝されている猛々しいイメージとは正反対の、そしてこう言うと失礼ですが、ほんとうに可愛らしい女性でした。あまりの可愛らしさに「こんなに可愛らしい女性が次のアメリカ大統領になるのか!」とひどく驚いた記憶があります。圧倒的なオーラというよりは、やさしくやわらかく、しかし誰もが引きつけられずにはいられない強い魅力をまとったひとでした。

公平な世界に必要なのは"オープンインターネット" ─「Dreamforce 2014」でヒラリー・クリントンが語ったこと

この記事にも書きましたが、ヒラリーとともに登壇したクラウス・シュワブ博士はヒラリーに対して「マダム・セクレタリー(Madame Secretary)」という、とても美しい響きと尊敬の念がこもった敬称で呼びかけていました。前国務長官であったヒラリーは世界で数人しかいない"マダム・セクレタリー"であることは間違いありませんが、しかし、彼女には"マダム・プレジデント(Madame President)"のほうがよりふさわしい - 1時間弱のスピーチですっかりヒラリーに魅了されたわたしは、2年後に"マダム・プレジデント"が誕生することを心の底から信じてこの記事を書き上げました。その2年後に、こういったかたちで自分の過去記事を紹介することになるとは微塵も思わずに。

いま、わたしはサンフランシスコ空港で日本への帰国便をまちながらこのエントリを書いています。10日前、米国に来たときはこんな気持ちで帰国することになるとは想像だにしていませんでした。ただ、10日前の自分とひとつだけ変わらない心情があるとするなら、ヒラリー・クリントンこそ米国初の"マダム・プレジデント"となるべき人物だったという思いでしょうか。若いときから貧しい人々や弱い立場の人々に心を寄せ、彼らのために身体を張って戦い、一方で知事から大統領になった夫を支えながら、女性やマイノリティの権利拡大を訴え続けたヒラリー。8年前、オバマに負け、それでもあきらめずに68歳という高齢で大統領候補になり、ようやく確実に栄光を手にしようとした瞬間、するりとそれは手のひらからこぼれ落ちてしまった…出張先のホテルの部屋で、彼女の敗戦を認めるスピーチをぼんやりと聞きながら、ふと、宇多田ヒカルの「花束を君に」の一節が心に浮かびました。

花束を君に贈ろう / 愛しい人 / 愛しい人 / どんな言葉並べても / 君を讃えるには足りないから / 今日は贈ろう / 涙色の花束を君に

今回の選挙結果に、米国民だけでなく、世界中の多くの人々が落胆し、涙を流しました。わたしもそのひとりです。それでもヒラリーがこれまで残してきた功績は何ひとつ消えません。たくさんの涙に彩られた美しい花束、これを受け取る資格があるのは、そしていまも"マダム・プレジデント"にもっともふさわしかった女性はヒラリー・クリントンただひとりだと思っています。ヒラリーがついにかなえられなかった初の女性大統領、名実ともに"マダム・プレジデント"となる女性に喜びの花束が届く日がそう遠くないことを願っています。

…それにしても、オバマからトランプって、米国のIT企業はこれからいったいどうなるのでしょうか。わたしの仕事もかなり先が見えなくなってしまいました。これが本当のディスラプションなんでしょうね。

Monday, March 21, 2016

How's it going? - いつかまた会える日まで

自分の人生にとってすごく大切なコンテンツのひとつに、さかいゆうの「君と僕の挽歌」という曲があります。さかいゆうが交通事故で亡くなった高校時代の親友を思って作った、その名の通りの美しいレクイエムで、ちかしいひとを亡くしたばかりの方であれば、たぶん心のふるえがとまらなくなってしまうかもしれません(ちなみにわたしがこの歌に心揺さぶられたのは、誰か大切なひとを亡くしたからではないのですが、それはまた別の機会に)。




さかいゆうはあるライブで、この友人が亡くなったとき「不思議と、つらいとかかなしいという感情よりも、感謝の気持ち - 僕と出会ってくれてありがとうという気持ちが強く湧いてきた」と振り返っていました。もちろん、いつもそばにいた友人がいなくなったことは受け入れがたいし、「How's it going? 調子どうですか」と声をかけても返ってこない現実は堪えるでしょう。それでも「こんなに別れがつらいなら出会わないほうがよかった」ではなく、「ああ、こいつと出会えて本当によかった」という感謝の気持ち、もう友人はこの世にいないけれど、その出会いから得たものはこれからの自分の人生を一生支えていくという確信、それを「これからも、よろしくね」という思いに変え、どうしようもないさびしさに押しつぶされそうな自分をよろよろと前に向かわせている - 重たいテーマの曲ですが、聴き終わったあとにはうっすらとではあるけれど希望の光が見えてくる気がします。かけがえのないひとを失っても、自分は生きていかなければならないという現実を、すこしは受け入れられる心持ちになってほしい、そんな作り手の気持ちがすーっと心にしみいってくるようです。

もうひとつ、大切なひとを見送ることの大切さが胸に迫る文章を紹介しておきます。1981年に飛行機事故で急逝した人気作家の向田邦子さんへの追悼文として、向田さんの書籍のイラストを数多く手がけた風間完さんが、向田さんが亡くなってから編まれた「男どき女どき」のあとがきに寄せた一節です。
人世は夏の日の水面に忙しげに小さな弧を描く水すましのようなものかもしれぬ。
それぞれが何がしかめいめいの仕事を了えて、どこかへ翔んで行き、いなくなってしまう。
向田さんもせっせと仕事をしてやがてどこかへ翔んでいってしまった。
悠久から見れば人が創る作品など水すましが水面にくるくると描く小さな輪のようなものかもしれぬ。
しかし人は生きている限り、たとえ偶然のめぐり合わせにせよ、出会った人々やその作品からうけた感銘というものを大切にする。それはその人の生涯の大切な宝である。
大切なひとから受け取ったものを、自分の人生をかけて大切にする、それは残された人間にとっての義務、というよりはそのひとがくれた最高の機会のような気がします。その宝物が心のなかにあるかぎり、そしてあなたが「How's it going?」と声をかけ続けているかぎり、そのひととはまたどこかで必ず会えるはずですから。