Wednesday, November 9, 2011

『坂の上の雲』のプロデューサー氏が去年話したこと


もうすぐNHKで始まる『坂の上の雲』の第3部。お笑い大河ドラマの『江』と違って、NHKの底力が結集したような本当に良い作品です。

去年のいまぐらいの時期、ちょうど『坂の上の雲』の第2部が始まる直前にOKIのプライベートイベントに仕事で行く機会があって、NHKの西村与志木エグゼクティブ・プロデューサーの講演を聞きました。PCのデスクトップに散らかっている古い取材メモを整理していたら、そのときのメモも出てきたので、第3部も始まるころだし、残っている記憶を頼りにさらっとまとめてみようかと思います。ちなみに第2部は、正岡子規と広瀬武夫という秋山真之の2人の親友の死がテーマでした。


  • 『坂の上の雲』は司馬遼太郎が40代で書き始めた小説。執筆に10年をかけた大作で産経新聞で4年かけて連載された。作品の舞台は日清戦争と日露戦争。
  • 司馬遼太郎は存命中、『坂の上の雲』の映像化を何度も打診されていたが、決してOKしなかった。その理由は、冷戦時代の最中に日清日露を扱った小説を出したことで、右翼と左翼の両方からさまざまな攻撃にさらされたことが大きい。右翼からは「乃木将軍の描き方がけしからん」、左翼からは「戦争を賛美するのか」とさんざんに決めつけられた。司馬さんは「自分の書いた文章が非難されるのはまだ我慢できる。しかし映像となれば自分の手を離れてしまい、思い描いたものと違うものになる。それで非難されるのはたまらない」と言っていた。
  • 1980年代までに、司馬遼太郎原作の大河ドラマは何本も製作されていたので、司馬さんはドラマの出来がだいたい予想がついていた。つまりすごく"貧乏臭い"作品になるとわかっていた → 時代劇は予算がなかったので、後半になると障子やふすまを背景にした"侍ミーティング"のシーンが増えた。庭のあるシーンは極力減らされた。『坂の上の雲』がそんな貧乏臭い映像になった挙句、右翼左翼からさらなる激しい攻撃を受けるなんて、司馬さんにとって耐えられないことだった。
  • 1996年に司馬遼太郎が亡くなる。その後、2000年に『菜の花の沖』がNHKでドラマ化、北前船のロケの現場で福田みどり夫人の説得を開始する。みどり夫人から「西村さんはなぜそんなに『坂の上の雲』を映像化したいのか」と逆に問われ、「いまの若者は本を読まない。しかしすばらしい映像作品を作ったら、そこから影響を受けて原作を読み始める人が増えるはずだ。僕は若者に『坂の上の雲』をどうしても読んでもらいたい」と答えた。結局、1年かけてようやく映像化の許可を得た。この時点で2001年。司馬さんが断り続けた時代に比べて、はるかに映像技術が進歩したという点も、夫人が許可を出した大きな理由のひとつ。
  • プロジェクトチームを作り、脚本づくりが開始(ちなみにベースの脚本は2004年に自殺した野沢尚が書き上げた。私はこの人の作品が大好きで、亡くなったことはいまでもすごく残念)。作品の時代背景などのリサーチも始まる。諸処さまざまなことがあり、ようやく2008年に撮影が開始。
  • 最初の放送は2009年末の第1部。以後、2010年に第2部、2011年に第3部を放送する。撮影も3年がかり、放送も3年がかり、こんな作品はNHKの中でもほかにない。
  • 第1部は大好評だった。終了すると「どうして、こんないいところで終わるんだ!」と視聴者からお叱りの電話がたくさん。そう言われても、そこまでしかできていなかったのでしょうがない。本当に、できたそばから放送してる。(2010年末の時点で)第3部もまだ撮影続行中。再放送をやるので、見逃した方だけでなく、2回でも3回でも見てほしい。何度見てもおもしろいから。宣伝臭く聞こえるかもしれないが、本当に自信作。この作品を作りたくて自分はNHKに入ったといっても過言ではない。
  • 第2部の見どころ1: 広瀬武夫に注目。第2部の主役はある意味、広瀬。戦前は軍神として奉られたが、戦後はその反動から歴史から名前が消えてしまう。司馬さんはおそらく広瀬を正しく評価したかったのでは。アリアズナとの恋を描いた部分は『坂の上の雲』における宝石のようなシーン。
  • 第2部の見どころ2: 真之と子規の友情。というより2人の関係は友情という言葉では表せない。香川照之は子規役のために17kg減量した。真之の「戦場で散る命も病床で死ぬ命も同じ」という言葉が重くて深い。
  • 司馬遼太郎は、おそらくこの先を書きたかったのではないか。日論戦争(1904年)のあと、日本は坂道を転げ落ちるように太平洋戦争に突入していった。そして1945年に終戦。価値観がなにもかも変わった。そして司馬さんは1985年、バブルが始まるころにこの作品を書いた。こうしてみるとだいたい40年周期で日本は大きな転換点を迎えている。1985年から40年後の2025年、社会の主役となっているはずのいまの若者たちにとって、この作品が何かのヒントになればいいと思っている。


…2025年を待たなくても、もうすでに大きな転換点を日本は迎えているような気もしますが、後世に司馬さんのメッセージを伝えたい、という強いプロデューサー魂が伝わってきた講演でした。こういう大きな作品を作る才能と機会に恵まれた人は、やはり自然とそれにふさわしい風格が備わるものなんだなーとちょっとうらやましくもあり。

というわけで第3部もたのしみにしてます。